Madam_toad’s blog

カエルを材料に進化生態学の研究をしている変わり者の独り言です。

ドビュッシーの「月の光」を聴くと亡き祖父を思い出す。

私は、戦争を知らないし、近しい親族で戦死者もいない。戦地に行っても、生きて帰ってきている。

 

表題の祖父は、母方の祖父で、戦後しばらくの間、シベリアに抑留されていたらしい。

直接祖父にその詳細を聞いたことはないまま、もう随分前に、亡くなってしまったけど。。。

本来、生きて帰ってこれたのが奇跡らしい。ではなぜ可能になったのか?

曽祖父が政治家と強いコネクションがあって、必死に探し出してくれたそうだ。名前を知らない人はいないような昭和の有名な政治家である。だから、生きて帰ってこれたといっても、それ自体は、背景を知れば褒められたことではないと思う。。。

 

祖父の斎藤一は、事業の関係で旧満州にいて、戦後の混乱でシベリアに抑留されるに至ったらしい。。。

母曰く、当時のことを詳細に記した日記があったそうだが、生前、燃やしてしまったのだという。

もう死んだものと思っていたら、ある日玄関に立っていた祖父は、ガリガリに痩せこけていて、どこのお爺さんさんだろう?という具合に、幼い母には誰だかわからなかったくらいだという。

 

私は何人もいる孫の中で、唯一、祖父と一緒にお風呂に入っていたという。子供好きなわけでもない、どちらかというと神経質な祖父が、孫娘と風呂に入って、寒風摩擦(昔いっとき、ちょっと流行った健康法で、冷たいタオルで体をゴシゴシ拭く習慣)していた。

祖父は年に数回くらいしか会わなかったと思うけど、幼稚園から小学生の頃、私はたまにくる祖父が好きだった。なぜかわからないが。子供心に古き良きダンディズムみたいなのを、感じ取ってたのかも知れない。

というか、実際、祖父はかなりのお坊っちゃまだった。

 

曽祖父が兵学校出身のガチエリートだったので、祖父が横須賀の駅に着くと、『司令長官おぼっちゃまのおかーえりー!!』っと兵隊さんが一列に並ばれて恥ずかしかった、と生前母に話していたそうだ(誰が作ってくれたのか親族もわからないのだけど曽祖父についてはwikiがある 斎藤半六 - Wikipedia)。

 

ちょっと、私には想像が及ばない世界だけど。そんな時代を見聞きした母が、なんだか浮世離れした雰囲気なのは、致し方ないのかな、て思う。

 

 

中学の時、その祖父が亡くなった。新宿で倒れて救急車で運ばれ、そのまま。。。あっという間に。

 

その頃だったと思う。母から私は、

シベリアで月を見ると、ドビュッシーの「月の光」を思い出し・・・涙が出た。』

と祖父が語っていた、という話を聞いた。

 

それ以来、

私は「月の光」を聴く度、祖父を思い出す。

 

 

ベートーベンの「月光」でなく、ドビュッシーの、というところが、なんとも言えない。

 

乾燥したシベリアの大地の空に浮かぶ「月」は、確かにドビュッシーの「月の光」だったんだろう。

この場合、ベートーベンの「月光」は違う。確かに違う。

感情が抑えられ、ただただ自然のありのままを冷静に表現したドビュッシーの音色は、自然の美を知る者ならどんな心情を持った聞き手にも、深く深く、突き刺さる。

ベートーベンだってそりゃ素晴らしいけど、あの楽曲にはベートーベンの痛いほどの感情が投影されてる。だけど、ドビュッシーは違う。「月」そのものを描写してる。楽譜に明から様な感情は一切書かれていない。物語性は、演奏者と聞き手に委ねられている。

 

 

そして極限状態だったにもかかわらず、好きな音楽を脳内再生してた祖父・・・

 

私も想像して、もちろんその想像は祖父の体験した現実には遠く及ばないだろうが、なんとも祖父らしいな、と。

この話を始めて母から聞いた中学生当時の自分にも、深く、それなりに深く、心に刺さった。

 

だってね、

今夜こそはダメか、と何度も思ったんだって。

ソ連兵が毎晩のようにやってきて、拳銃を突きつけながら『女を出せ』と。ある晩はどうしようもなく、その日に亡くなった子供の亡骸を前に、祖父は手を合わせ、ただただ、子供の亡骸を前に「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏...」と拝んだと。殺される覚悟で。

そうしたら、ソ連兵も諦めたのか、その場を去ったんだって。

 

生米しか出されないという状況の中、子供は皆死んだ、と。

祖父自身も、もう一冬は越せなかったろう、と。

 

だけど、ソ連兵が行進しながら歌う軍歌がまた美声で上手で。祖父はその軍歌を覚えてしまって、それを戦後聞かされて覚えた母は、幼い私にもよく歌って聞かせてくれた。

 

・・・残虐性と芸術性って、なんとも言えない。

 

人間は複雑だ。

 

 

 

 それはさておき、

私がドビュッシーを好きになったきっかけはまぎれもなく、この祖父に由来している。

たくさんのレコードを持っていたし。おかげで私が初めて「子供の領分」を聴いたのも幼稚園生の頃だし。CDの時代になったらなったで、新しもの好きだった祖父はすぐCDプレーヤーも購入してた。いわゆる文化人だったんだと思う。

その祖父も戦後に起こした事業は失敗続きで、母も金銭苦で大学には進学していない。

 

若い頃、慶応ボーイだった当時の祖父は、東大の教室の机の上を全裸で行進したり、また浅草でも随分と遊んでいたらしく。その記憶が鮮明だったのかなんだか、

「ベアトリねーちゃんまだ寝んね〜♪」と歌いながら酔っ払って帰ってくる祖父が恥ずかしかった、と母はいう。浅草オペラ - Wikipedia

 

とても素敵な人柄だった一方で、世間知らずな面はあったのかもな、と想像する。

 

戦中、母の一家は長野に疎開してたらしいが、代々木上原にあった邸宅は空襲の混乱で人の手に渡ってしまったらしい。当時はとにかく混乱期だったから、勝手に表札を立てられ、帰ってこなければそのままその人のものになってしまったのだとか。現代では信じ難いが、当時、そういうのは本当にたくさんあったらしい。

 

母の私にはない天然さ、よくえいば品の良さ、悪く言えばしょうもないほどの世間知らずなところは、その育ちにあるんだな、と大いに思う。

まったくもう!て思う反面、羨ましくもある。

 

そして祖父は、私の中では多分、ある意味一つの理想の男性像というか、素敵なお爺様だったと思う。

 

そして何より、まっすぐな人だった。

 

そう思う。

 

 

一緒に音楽を聴きたい。

 

 

 

乾燥した空気の中に浮かぶ満月を見ると、いつも思い出す。

 

 

『涙が止まらなかった』

 

なんに対して?...だろう、と。

 

 

ドビュッシー:ピアノ名曲集

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